ある日、図書館にいてふと不安になる。
わたしは今、数え切れないほどの情報の中にいる。
それなのに、膨大な情報のほんの一部だって、本当に知っていることがあるのだろうか。
図書館の中の限られた情報しか、わたしは知らない。
(本当に知っているのかどうかも定かではない)
その図書館だって、世界に存在している情報の、たった一部でしかない。
限定された世界の中の、さらに限定された小さな世界。
そして限定しているのは、紛れもなく自分自身。
図書館の果てには、一体何があるのだろう?
そこで、ある試みを思いつく。
方法は簡単。
図書館の適当な本棚の列を、気が向いたらさらっと眺める。
そして心にひっかかるタイトルがあったら、メモをしておく。
たったこれだけ。
心にひっかかることは、今のわたしが欲しているものを知る手がかりとなり、
欲しないこともまた、今のわたしをあらわすものとなる。
もしわたしに砂鉄が吸いついてくるのなら、わたしは磁石であるかもしれないし、
もしわたしに苔が生えるのなら、わたしは動かない小さな石であるかもしれない。
そういった情報の断片を集めていけば、わたしというものの輪郭が見えてくる。
けれども、いつも同じ方向からわたしを照らしてばかりいれば、限られた自分しか見えてこない。
砂鉄が吸い付くからといって、わたしが鉄とは限らないのだ。
もっと情報を、わたしをあらわす情報を、いろいろな方向から照らしてみてはじめて、わたしというものの全体像が見えてくる。
情報を限定しているのは、紛れもなくわたし自身。
だからわたしは、自身で限定してしまっている情報のアンテナを、なるべく広げ、情報を情報として受け取る試みをする。
図書館の果てに、何が見えるのだろう?
この試みには、2つの注意点がある
「図書館のすべての本棚を見なくてはならない」とか、「図書館に来たら、必ずこれをやらなくてはならない」というノルマを自分に課さないこと。
義務になった瞬間、自分の内から出る力で本を見れなくなってしまう。
本当に欲している情報を得るには、そういった強制力から自分を解放しなければならない。
本棚の本を全部見る必要なんてない。
宮城県図書館の本棚の列は、全部で84あるが、その中のたった1列だけで構わないのだ。
選んだその列の本棚のうち、さらに一段だけでいい。
(宮城県図書館の本棚は6段構成だから、全部で84×6=504通りの選び方があるということになる。)
要は、集中力を低下させないこと。
自分が本当に欲していれば、自然と集中できるはず。
心に引っかかるタイトルを見つけ、本を手にとって少し眺めてみて、
読みたいなと思ったとしても、とりあえずそこでまた本を戻す。
そして、その後は自分勝手に想像する。
自分の中にない材料で、想像することなんてできやしない。
だから、想像することはすべて、私自身をあらわす情報となる。
いつまでも心に引っかかるものなら、想像が自分の中でどんどん膨らむはずである。
そうなったら、その本を読まずにはいられなくなるだろう。
そうなったら、読めばいい。
そして、本と自分の想像とのギャップを楽しむ。
ギャップによって、わたしという存在はさらに浮き彫りになる。
いつまでもわたしの心に引っかかる言葉。
想像力を掻き立てる言葉。
これらは、そのままわたし自身をあらわす、ひとつの断片になる。
こういった試みが、わたしの日常になること。
図書館に限らず、外の世界と自分自身とをいかにリンクさせるか。
外の世界の情報を、いかに自分自身に投影できるか。
すべての存在を、鏡または比喩と捉えられるか。
『慣れ』は、そういったことを邪魔する存在でしかない。
『慣れ』を、追放しよう。