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2005.08.12
左手から、何を想う『慣れ』ないために

最近、左手でごはんを食べるようにしている。 これまで箸を持つのは、常に右手だった。
だから、残り少ないところてんを左手で食べたりするときには、特に大変な思いをしている。

左手から感じる、時の重み

右手は、これまでの22年間、いろいろなことを習得してきた。 箸を使うこと、歯を磨くこと、字を書くこと、ボールを投げること。 他にもいっぱいあるだろう。 だけどなかなか、ここに書き並べることができない。 きっとそれだけ、無意識のうちに、右手はいろいろなことができるようになっている。

一方左手はというと、単独で活躍する機会を与えられなかったためか、未だ文字を書くことさえおぼつかない。 試しに、左手で文字を書いてみた。 長年慣れ親しんだ自分の名前は、きちんと書ける。 しかし、他の字となると・・・ なんということだろう。 あんなに集中して(脳みそとエネルギーとを使って)書いたのに、この世には存在しない、新しい漢字を創ってしまった。 右手は、ボーっとしながらでも字を書けるし、脳みそとエネルギー要らずで、いろいろなことを難なくこなせる。 一方左手は、脳みそとエネルギーを以ってしても、物事をうまくこなすことができない。

その差は、ただ単に『慣れ』ているか、 『慣れ』 ていないか、の差だけである。 しかも、わたしが右手を選んだ理由なんて、ただ“なんとなく”だ。 しかしながら、たとえ“なんとなく”でも、22年間積もり積もれば、歴然とした差となる。 もし意識的に蓄積されたものであれば、その差は計り知れないものとなるだろう。 その差にわたしは愕然とし、左手から時の重みを感じた。

『慣れ』 は、脳みその省エネ

『慣れ』 てしまえば、人は脳みそをほとんど使わずに、ものごとをこなすことができる。 脳みそを使わなければ、エネルギー消費量は減少する。 つまり脳みそは、 『慣れ』 ることで、省エネをしているのだ。

例えば、毎日通っている通学路でも、脳みそはきちんと省エネをしている。 その証拠に、わたしは何も考えなくても、いつの間にか学校に着いている。 学校とは別の目的地に行こうとしたのに、学校に向かってしまうことだってあるくらいだ。 (注:ちゃんと途中で気づきます!) そんなとき、わたしは 『慣れ』 ってすごい能力だなと驚くと同時に、ある種の恐ろしさを感じるのである。

『慣れ』ることへの恐怖

『慣れ』 れば、人は脳みそをほとんど使わずに、生きることができる。 そして、脳みそを使わないことに、次第と 『慣れ』 ていってしまう。

しかしながら脳みそを使わないことに 『慣れ』 、生きること自体に 『慣れ』 てしまったら、 そこに喜びはあるのだろうか。 心は、震えるのだろうか。 すべてのものに 『慣れ』 た瞬間、見えていたものさえ、見えなくなってしまう。

こういった 『慣れ』 に対して、わたしは恐ろしさを感じ、 でも気を緩めれば 『慣れ』 てしまうであろう自分、 そしてすでに何かに 『慣れ』 てしまっているであろう自分に対して、危機感を覚えるのだ。

『慣れ』 ないために

当たり前となってしまったことは、すでに山ほどあるだろう。 『慣れ』 てしまっているからこそ、そこにそれが存在していること、 そしてそれが存在している意味について、気づくことができないでいる。

わたしはこれから、そういった風に 『慣れ』 てしまったもののひとつひとつを、見つけて、引き剥がしていく。 頭から一度すべてを追い払って、真っ白にしてから世界を、そして自分自身を見わたせば、 今までそこにあったのに見えていなかったものが、見えてくると信じている。