ある日図書館で 『図書館の果て』 を試みていると、『コツの落とし穴』というタイトルが目に付いた。 もっと正確に言えば、『コツと落とし穴』というタイトルの読み間違いである。 そう読み間違えるということは、そう読み間違えたいということ。 『コツの落とし穴』の種が、わたしの頭の中にあるということだ。
世の中に溢れる『コツ』の陰にはいつも『落とし穴』が潜んでいる。 そしてその『落とし穴』にはまっていることにさえ、気が付けずにいるのかもしれない。 そういった具体例を集めて、『コツの落とし穴』を本にできたら面白いかもしれない。
そもそも『コツ』って、何だろう?
そう考えているうちに、いつの間にか『コツ』≒『ミソ』≒『要領』≒『theory』≒『How to』という連想をしていることに気づく。
こういったものはすべて、ある状態変移をする。
『コツ』を考えて身に付けようとするとき、つまり無から『コツ』が生まれるまでは、人は集中して脳みそを使う。 物事の本質的な部分を理解し、抽出する作業が必要だからだ。 この時期を『コツ』の生成期とする。 その『コツ』の生成後、人は『コツ』を掴むことで、脳みそのエネルギーをほとんど使わずにして、物事をこなすことができる。 この時期を『コツ』の安定期としよう。
そもそも『コツ』とは、脳みそのエネルギー、体のエネルギー、時間などの大切なコストをなるべく使わずにして、作業効率を上げようとする適応の結果である。 そういった意味で、『コツ』の安定期は必要十分である。 しかしながら、すべてのものにおいてもそうであるように、表があれば裏があり、光があれば陰がある。 効率の点から見れば価値のある『コツ』の安定期にも、その陰に潜んだ『落とし穴』があるのだ。
エネルギーと効率の点から見れば価値のある『コツ』の安定期も、脳みそを働かせて創造的な営みをするという点から見れば、全く価値のないものとなる。 この点から言えば、『コツ』ができるまでの生成期に価値があるのであり、『コツ』ができてしまったあとでの安定期には、全く価値はない。 さらに、脳みそのエネルギーをなるべく使わないということは、『慣れ』ることと同義であり、『慣れ』ることには、すべてを当たり前のものにしてしまう恐ろしさが潜んでいる。 (『慣れ』については、 『左から、何を想う』 でも書いています。) すべてのものが当たり前になれば、脳みそを働かせて創造的な営みをしようなんて発想は出てこなくなるので、結果『コツ』が生まれることはない。 このように、『慣れ』は、すべての創造的営みを阻害する恐ろしさを潜ませているのである。
そして脳みそを使わないことに『慣れ』、すべてが当たり前のものとなったとき、人は喜怒哀楽を失ってしまう。 このとき湧き出る感情と言えば、人が自分に何をしてくれるか、ただそれだけに一喜一憂するだけで、それ以上のものは何もない。 その不自由ささえ、感じることができない怖さ。空気があることが当たり前で、空気がなくならなければその存在を認識できないのと同じように、『慣れ』にはすべてを見えなくしてしまう怖さがある。
わたしを構成するものすべて、『慣れ』であることもまた事実である。 それは、文化であり、歴史であり、風俗であり、思想である。 また、親も含めた他人であり、自分でもある。 そういった『慣れ』の集合体が、今のわたしそのものなのだ。 これも突き詰めれば、わたしに自由意志などなく、すべては『慣れ』の集合体が、刺激に対する反射として複雑な反応を見せるだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもないということになる。
それでも、そこに創造的営みを迎え入れたいと思うのは何故だろう。 それは、創造的営みが人間の喜びを増幅し、その結果が創造的営みへの欲求をまた喚起するというサイクルが、人間というものをよりしなやかに再構築するための仕組みであるからなのかもしれない。 つまり、このときはじめて『慣れ』のみの世界から脱却することができる。 そもそも人間は、喜びを欲するのである。 ただし創造的営みというものは、そう容易くできるものではない。
わたしを構成している『慣れ』を、まずひとつひとつ認識していくこと。 そして、喜怒哀楽と目指す方向性をアンテナにして、その『慣れ』を取捨選択していくこと。 かつての偉人も、99%の『慣れ』を認識・理解し、残りの1%に自らの創造的営みの息吹を吹き込んだのだ。 わたしを構成する『慣れ』を理解し、それでもまだわたしがそこにあることを望むのなら、それがわたし独自の創造的営みへの大きなヒントとなる。 そして、そう信じることができるのは、わたし自身に他ならないのだ。